2019年4月より連続ドラマ「おしん」の再放送がやっています。
私も土曜日の一挙放送の波に乗り、見てみることにしました。

「おしん」は、1983年-1984年に放映されています。
当時、7歳だった私は小学2年生かな?当然のごとく学校に通っていたので「おしん」を見た記憶はありませんでした。

作品を視聴するときによくやるのですが
Amazonのレビュー欄を眺めて、多くの人の意見を見ます。
色々な考え方の人がいますし、全く違う視点で見ている人もいる。
そんなことが面白いからです。

そんなレビュー記事の中に、ふと気になった文面が
俊作という人物も、その考え方も胸に響く。第二次大戦の時代を知っている橋田壽賀子ならではの人物造形であり、考え方だと思う。国と国との間では一筋縄ではいかない。ときには血腥いことも起こる。だが、人は人を傷つけてはならない、殺してはいけないという考え方は、どんなときも忘れてはならないと思った。

人は人を傷つけてはならない、殺してはいけない、という考え方。

最近では社会への希望を失った中年男子が無差別殺人をしてしまうような事件が度々起こっています。
また、そのような事件が起こる度に、メディアはその事件についてしつこいくらいに報道し、世論は同情の声を発信します。ネットが普及して日本全発信者時代だからなのか、多くの人がその事件についての意見を発信し、現場には花やジュースを供えます。

その根底には、おそらく、Amazonレビューにあるような「人は人を傷つけてはならない、殺してはいけない、という考え方。」が強くあるんだろうな、と思います。

そこで、超個人的に思ったことを書いていきたいと思います。

人を傷つけてはならないという考え方はどこから来たのだろうか?

・江戸時代以前、お侍さんは理由もなく人を斬ったり殺めたりすることがあった。
・ほんの少し前の話だが、狩猟採集民のとある集団は当たり前のように老婆を背後から撲殺する。
・つい最近までジェノサイドは普通に見られる現象だった。
・ライオンの子殺し、くまの子殺しに見られる種の争い。

NHKスペシャルに「ダイヤモンド博士のヒトの秘密」という番組があります。
(全12回)ようつべにもありました。
https://youtu.be/7IOlRUwwiu0

第10回の動画では文明化した社会とそれ以前の社会について話をされています。
文明以前と現代とでは、ヒトが死ぬ確率は、現代のほうが少なくなっている。ということでした。
これは、戦争や紛争、争いごとが起きている現代でも、古来の文明以前の暮らしよりも人は死ななくなった。ということです。(絶対値ではなくて比率です)

サピエンス全史という本を読むとこんな表現が出てきます。
「平等とは、神が作り出したもの」
平等を始めとしたあらゆる価値観は、全て宗教的な側面から生まれている、ということです。

神が世の中を創造した。
そして神は、全てのものを平等に作った、と言ったから平等になった。

その考え方を当てはめると、
命の尊さも、神が創造したという思想から派生した考えなのではないでしょうか?

自然界に平等という概念はほとんど見られません。
必ずと言えるほど、何らかのヒエラルキーを抱えています。
ライオンやクマは、場合によっては死ぬほど争います。
また、自分の遺伝子を残すために「子殺し」をします。

自然界では生死は当たり前のように日常にあるもの。

動物が道端で死んでいると

日本人は可愛そうだな、と情を動かします。
アフリカ人は、当たり前、日常、という意識でなんの情も動かしません。

生きること、死ぬことは本来、日常的でアタリマエのことなのに
今の日本ではどうしてか?とても大切で貴重なことのように扱われています。

もちろん、命は尊いと思いますし、大切なものです。
私だって死ぬことを考えたら怖くなりますし、長生きしたいと当然ながら思います。

でも、今の世の中を見ていると、自分の周り以外のところの出来事に心を動かし過ぎじゃないかな、と思います。
自分とは無縁なのにテレビの世界に情をかけたり、ただ人伝いに聞いた話に喜怒哀楽を示したり、

人間は、本当に不思議ないきものです。
だって、実際に体験していないのに、情報として入手しただけのことに対して
こんなにも情を移すことができるからです。

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